これから海外留学を目指す先生へ(2001年)

下記の文章は私が1999年に留学した頃に書いたものです。コロナ禍で世界が大きく変わってしまった現状には当てはまらない点もあるかもしれませんが、今後発展される若い先生たちの参考になれば嬉しく思います。

早いものでメンフィスのSt.Jude Children’s Research Hospitalに来て3年が経ち帰国することになりました。こちらでは楽しいこと、つらいことたくさんのことがありましたが、密度の濃い有意義な時間を過ごせたと思います。これを読んでおられる皆さんの中にもこれから海外留学をしようと思っておられる方もおられると思います。この機会に少し私の体験を書くことによりそういう方の参考になれば幸いです。ただあくまで私個人の体験に基づくものなので、地域、ラボその他の事情により一般化できないこともたくさんあるかもしれません。
ラボメンバーとジム(中心)の写真です。

1.留学の目的

 まずはじめにはっきりする必要があるのは目的でしょう。有名なラボで一発あてたい、いろいろな技術を身につけたい、研究に専念できる環境がほしい、外国でのんびりしたい、とにかく外国に住んでみたい、なんとか今の状況から逃れたいなどいろいろな目的や理由があると思います。目的に善悪はありませんが、まず自分のなかではっきりさせることは重要だと思います。私の場合は一流のラボのやり方を学びたい、また今や分子生物学では必須ともいえるノックアウトマウスの技術を身に付けたいというのが主な目的でした。目的に応じて当然行き先は変わります。その際に何もかも自分の希望どおりの場所が見つかることはまれで、様々な点で妥協する必要が出てきます。そのとき自分のなかでこれだけは譲れないというものがはっきりしていればあまり迷うことはないでしょう。もしボストン、ニューヨークや西海岸など有名なあるいは人気のある土地を選ぶ場合には、やはり競争も激しく、家賃、物価が高いために生活が大変なこともあるでしょう。逆に私のいたメンフィスは大きな田舎町といったところで家賃、物価は安く生活はしやすいところでしたが、やはりアカデミックな雰囲気には乏しいことが欠点でした。治安に関しては私たち日本人には感覚的に理解しにくいところですが、どの町にも治安の悪いところと良いところがあり基本的に悪いところを理解して避ければ特に大きな問題にはならないと思います。実際、メンフィスはアメリカではかなり治安の悪い都市の一つに数えられていますが、悪いのは限られた地域で、私たちは郊外の安全な場所に住んだので、神戸のほうがよっぽどがらが悪く感じたものでした。

2.留学先選び

 目的がはっきりしたら次はそれに合った行き先選びです。ここはなかなか難しいところですが、例えば先輩や知り合いで留学された人がいればいろいろ聞いてみるあるいは紹介してもらう、自分がとくに興味を持った論文があればそのボスの名前で論文をあたってみる、一流雑誌にのっているラボをかたっぱしからあったてみるなどいろいろな方法があると思いますが、ここでも重要なのは目的を良く考えることです。ただ論文から決める場合に注意が必要なのは1本の論文で決めないことです。ある分野で花形的な論文が出たとしても、最近の情勢ではノックアウトを作ったらたまたまそのような表現型が出たという場合もあり、そのときには実はそのラボにはバックグラウンドがないということもあるので、それまでの論文も考慮してラボの流れやボスの興味を見極めることも重要です。やはり有名なラボ、アクティビティの高いラボは良い論文をかけるチャンスは増えますがそれだけに生き残っていくのは大変です。ボスが大変厳しくラボの中での競争が激しかったり、また日本人はただでさえ語学のハンディがありまた自分を主張したり、交渉したりすることは慣れないとなかなか大変なためにfirst authorをとられたりといった話もけっしてめずらしいものではありません。また有名なラボは人気も高く売り手市場なだけに自分でグラントをとらないと受け入れてくれないところも多いのです。私がアプライした中の一つのUCSDのあるラボは基本的にほとんどがグラント持参で、40人以上のポスドクがおり、プロジェクトも取り合いといった激しいところでした。逆に小さなラボは和気藹々とやっていることが多く比較的のんびりできるところもあると思います。ねらい目の一つは新進気鋭の若手が最近独立したラボかもしれません。行き先を捜すのに結構助けになるのはCell, Nature, Scienceといった雑誌の広告欄にあるポスドク募集です。その中で自分の希望分野にあったものがあれば大いに参考になるでしょう。その他情報収集の方法として興味があるラボがあったらそこの論文から留学していた日本人を探し出し手紙やメールで連絡をとって情報を聞き出すという手もあります。私も何人かに連絡をとりいろいろと貴重な情報を教えてもらいました。
 候補先が決まったら実際にアプライですが、基本的に頭に入れておかなければいけないのは留学が決定するまでは水物であるということです。行く側と受け入れる側の条件とタイミングが合ってはじめて決まるわけですが、受け入れる側もグラント次第といった場合も多く、内定していたのにグラントが取れなかったために取り消しになったりというのはよくあることです。そういう意味でこちらとしては例えば誰かと入れ替わりに行くとか、確実な紹介で決まっているといった場合以外はいくつかに同時にアプライしそのなかで交渉しながら絞っていくというのが現実的でしょう。実際私の場合は8通くらいアプライしそのなかでいけそうなのが半分くらい、2箇所にインタビューに行って最終的にJames Ihle研究室に決めました。決めた理由は上記の目的を満たしていたこと、ラボの雰囲気が良かったこと、プロジェクトはそれぞれが独立しているのでラボの中の競争がないこと、ボスのレスポンス(例えばメールのやりとりや手続きなど)が早かったこと、あとはボスの性格が信頼できそうだったことでした。

3.実際に留学して、生活編

 留学のセットアップなど具体的なことはいろいろ本が出ているので参考にしていただければと思います。一般的なこととしてどこもお役所仕事は一緒かもしれませんが、アメリカのお役所仕事は日本人的感覚からするとよく言えばおおらか悪く言えばいい加減といった感じで最初はいろいろとストレスの種になりますが、郷にいっては郷に従えであせらず慣れるしかありません。また留学するにあたって最も重要といってよいのは家族のことです。私たち自身も慣れるまでは大変ですが、家族(妻、子供)にとってはもっと大変です。
 私たち自身には夢も希望もあるので少々の困難でもがんばろうと思うことができますが、とくに奥さんにとってアメリカが好きで英語も得意というのならともかくそうでない場合のほうが多いでしょうから、何か問題が起こったときには家族で力を合わせて解決することが重要です。しかし逆に家族の大切さというものを考え、絆を深めるよいチャンスともいえます。また奥さん自身がアイデンティティの危機を向かえることもあるかもしれないので、やはり協力しあうことが重要です。ただ慣れてしまうとアメリカという国は豊かな生活のしやすい国だと思います。日本も見習うべき点は多くあると感じました。まあ土地の圧倒的な広さなどどうにもならない点もありますが。

4.研究室編

 ポスドクとしての生活は日本での研究のやり方とはまったく異なったものでした。James Ihle研究室ではボスであるジムがいくつかのプロジェクトを示唆してくれますが基本的にやることは自由です。ただジムは生理的意味を最も重んじるので基本的にクローニングした遺伝子をノックアウトし解析することになります。もちろん定期的にセミナーで発表しその際にそのプロジェクトの可能性、方向性について厳しい意見が飛び場合によってはまったく無効になることもあります。最初のころはずいぶん理不尽な意見だなあと思っていましたし、自分自身でも何ヶ月もかかって苦労して得たデータをぽいとほられて悔し涙にくれたこともありましたが、今は基本的にジムの意見は正しかったと思うようになりました。例えばジムが疑問を呈した部分は論文にして出してもやはりレフリーに厳しくついてこられることが多いのです。つまり厳しいのはジムではなくサイエンスそのものであるということが理解できるようになりました。やはりサイエンスの常識と良い目を養うことは非常に重要です。金銭的にはハワードヒューズの施設であることもあり信じられないほど潤沢で、基本的には欲しいものはキットであろうがマウスであろうがなんでも手に入れることができます。必要なものはなんでもそろえよう、しかし最高のデータをもってこいといったところでしょう。実際マウスの維持には年間5,000万円以上をかけておりポスドクの給料よりも多いくらいです。サイエンスには厳しいジムですが、人柄は良く徹底的な現実主義者で、彼の考え方から大変多くのことを学びました。

5.サイエンスの裏で

 ジムはMolecular and Cellular Biologyという雑誌のChief editorまたCellのassociate editorであることもあり多くの情報がpublishされる前に入ってきました。サイエンスにとって情報は命であり、そこにアメリカの有利さというものを感じずにはいられませんでした。日本にいたのでは知らずに研究を進めて結局負けて地団太を踏むということも十分ありえます。しかし逆に私たちのラボからCellに出してもあっさり落とされることもよくあり意外と公正に審査されているなという印象もありましたが、ときには明らかにできレース(私たちのラボではありません。念のため)もありサイエンスの世界においてもポリティックスが作用するのは人間の世界である以上当然のことかもしれません。

6.旅行編

 日本ではなかなかまとまった休みを取ることは難しいですが、こちらではもちろんラボの雰囲気にもよるでしょうが、夏休みは豪華に取れる場合が多いと思います。私たちも6月の学会と兼ねてアメリカ、カナダの国立公園をいくつか旅行しました。もともと自然に特別興味があるほうではなかったのですが、これらの大自然には圧倒されました。やはり日本の公園も良いですが、こちらのスケールには圧倒されます。また最盛期でもそんなに人ごみに悩まされないのは大変贅沢で、有名な観光地では人を見に行くような日本を考えると非常に贅沢だと思います。アメリカではレンタカーの旅行が一般的で車で大変旅行しやすくなっています。レンタカーなら小さい子供を連れても十分可能です。私たちが行った中で大変感動しおすすめできるのはカナダのバンフ国立公園、ウォータートン国立公園、アメリカではやはりイエローストン、グランドティトン国立公園それからヨセミテ国立公園が素晴らしかったです。これらの雄大な景色は今でも心に焼き付いています。私たちは行っていませんが、グレイシャー、ブライスキャニオン、グランドキャニオンなどもよいようです。

7.出産編

 私の場合は留学時家内と3ヶ月の娘と一緒に来ましたが、家内はこちらで妊娠出産を経験することができました。一人目は日本で生んだので日米の医療、病院システムの違いについて見る良い経験でした。アメリカでは医療費が非常に高くシステムはきわめて合理的です。実際家内は2人とも帝王切開だったのですが、日本では10日、こちらでは3日で退院でした。自然分娩の場合はなんと24時間から48時間で退院です。ただこちらでは無痛分娩が普及しており体力の消耗が違うため、実際家内もこちらで3日目に退院したときのほうが日本で10日目に退院したときより元気でした。
 退院後は近所の日本人をはじめとしたたくさんの友人たちに助けてもらい、私も1週間くらい仕事を休んだだけでなんとかのりきることができました。ただはじめてのお産をする場合にはやはり実家の助けを借りるほうがよいかもしれません。費用は保険がほとんどカバーしましたので全部で100万円くらいかかりましたが実際に支払ったのは10万円前後でした。子育てに関してはアメリカのほうが圧倒的にしやすいと思います。子供用品、子供服やおもちゃなどは安くありますし教会などでリサイクルも盛んです。保育園を見つけるのも難しくありません。こちらは母親も働いている場合が多くサポートする社会的なシステムが良くできていると思います。

8.最後に

 いろいろと書いてきましたが、もし留学しようかやめようかと迷っている人がおられたら私は強く勧めます。研究環境などは最近では日本でもアメリカのラボをしのぐところもたくさんあると思います。しかしサイエンスのトップランナーを大量に生み出しているアメリカの合理的なシステムを見るだけでも価値があります。また家族にとっても試練は多くありますが、力を合わせてのりこえることによって生み出される絆と自信は大変大きな財産です。日本を飛び出して異なった文化と接することは国際化が進んだ現在グローバルスタンダードを理解するうえでも有意義だと思います。そして日本という国、日本人を外から眺めることによって逆に日本の良さを再発見するきっかけにもなるような気がします。この拙文が留学を迷っている人に少しでも勇気を与えることができれば幸いです。最後になりましたが千原教授、James Ihle教授をはじめこの留学を支えて頂いた多くの方々にこの場を借りてお礼を申し上げたいと思います。

追記

当時からは想像もできなかったCOVID-19が世界を席巻しています。今すぐ留学というのは難しいかもしれません。ただこのコロナ禍でも私が指導した大学院生たちが卒業後に留学していました。彼らは苦労も多かったと思いますが、得るものもさらに多かったようです。ポストコロナの世界のサイエンスは変化する部分もあるかもしれません。しかし留学の意義が大きいことは変わらないと思います。若い先生方のチャレンジを期待しています。

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