われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか -心とホルモンの密接な関係— Part1
私たちは何者なのか?
コロナ禍で今はもう夢のようだが、学会出張で海外に行くのは楽しみだった。いずれの場所にも思い出があるが、学会で行った時には必ず街を散歩するとともに美術館には行くようにしている。その中で、ボストンは何度も行く機会があったが、必ずボストン美術館には行っていた。印象派や葛飾北斎の大ファンである私にとって、大変豊富なモネの美しい絵画や浮世絵のコレクションも楽しいのだが、いつもその絵の前で佇んで考え込んでしまう絵がある。
それは、ポール・ゴーギャンの代表作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」である。海外の美術館で素晴らしいのは、ゆっくりと椅子に座って横幅3メートルを超えるこの大作の前で思いにふけることができる。
ヨーロッパで絶望したゴーギャンは、楽園を求めてタヒチに移住しこの絵を完成させた。書き上げた後には自殺を決意していたという。それは楽園が結局存在しなかったからなのだろうか?右側の子供と若者は人生の始まりを、中央の人物は青年期を、左側の人物たちは諦めと死を受け入れる老婆が描かれ、その足下には白い鳥が言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている。私たちは、自我に目覚めて以来ずっと,自分はどこから来てどこに行くのか、そしていったい何者であるのかを考え続けているように思う。一方で自分が何者かを突き詰めて考えすぎると心は迷い袋小路に陥ってしまう。しかしながら、科学、芸術などほとんどのものの究極的な目的は「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」に答えることではないだろうか?
なぜ心は動くのか
心を制御しているものはなんだろうか?私たちは、笑ったり、泣いたり、時に些細なことで幸せを感じたり、やりきれぬ怒りを感じたり、どうしようもなく落ち込んだりしながら生きている。そして内からあふれる感情に支配され戸惑うこともめずらしくない。そして自分の心がなぜそのように動くのか意識していない場合も多い。
離見の見という言葉がある。室町時代の能楽師世阿弥がその著作、花鏡の中で残した言葉だが、「目を前に見て、心を後ろに置け、我が目の見るところは我見である、離見の見にて見るところはすなはち見所同心の見なり」と前をしっかり見る一方で自分の所作振る舞いを後ろから客観的に見ることの重要性を指摘している。世阿弥は芸事としての能の上達のために、自分を離れて客観的に見ることの大切さを説いているが、心理学的にはメタ認知と同じことであり、自分の中で何が起こっているのかを客観的に認識するためには重要な考え方である。これは実際に人生において短慮を避けて品格のある振る舞いするためにも必要である。
また感情で心がいっぱいになり、物事を一断面あるいは自分の立場でしか見ることができない状況のときに非常に助けになる考え方である。そのような目で私たちの心の動きを見てみると興味深いことが見えてくる。私たちは家族で何気ない会話をしながら食事をしているときに幸福を感じたり、期待していたものが得られなかったり他人が自分を認めていないと感じたときに怒りを覚えたり、大切なものを失ったときに悲しみに打ちひしがれたりする。あるいは自分の命を犠牲にして人を助けるような行動を見て感動する。
このように見ていると感情の動きは非常に適応的であることに気づく。約20万年前に生まれたヒトの祖先は森を出てサバンナで狩猟生活をしていた。ヒトは集団で生活し社会性を身につけていった。これは獲物を得るのには大勢で協力が必要であり、獲物を分配したり外敵から身を守るために必要な方法であった。約1.2万年前に農耕生活が始まるとさらに集団は大きくなり、社会も複雑になっていった。財産や土地といった概念が重要になり、貧富の差も出現していった。このような環境で生き延びるためにヒトの心は進化したと考えられている。
つまり集団で食事をしたり分けあったりしたときに幸福という感情、獲物を得られなかったときや集団の中で認められなかったときに怒りという感情、大事な道具や仲間などを失ったときに悲しみという感情を引き起こし、集団としての適応力が最適化されるような行動を取るように進化してきた。そしてその行動の元になるのが様々な強い感情である。
心の進化
ヒトは進化の過程で心を創ってきた。動物にも心はある。しかしヒトのように考えているわけではない(おそらく)。思考には言語が必要であり、心、思考も言語の発達とともに進化してきたと考えられている。また動物とヒトの最も大きな違いのひとつは、ヒトは意味を、自分が存在している意味を、行っていることの意味を求める点であろう。一方でヒトを含む動物は生き延びるための本能というものを持っている。
本能には、食欲、性欲、睡眠欲などがありその力には抗いがたいものがある。そして本能を失うと生きる力そのものの低下につながる。動物は基本的に本能に従って行動する。ヒトが生きていく上ではそうはいかない。本能の赴くままに行動するとヒトは社会から排除されてしまう。おそらくそのような行動が集団に取っては不利であるため、人は他人が本能的な行動すなわち下品な行動をとるのを見ると、不快に感じるようにプログラムされている。動物も本能だけで行動しているわけではない。野生動物でも餌を前にした状況においてより強大な敵の前では我慢することにより行動を律する必要がある。
またそのような集団生活で必ず必要になったのが嘘をつく能力である。人間は嘘をつく。政治家はたくさん嘘をつく。それは集団生活において思いのままを正直に喋ると争いを生んだり、自分の存在が脅かされるからである。それは夫婦関係でも同様であろう。一方で、人のためについている嘘なのか、自分のためだけなのかは重要である。おそらく良い嘘をつくために人は良心や倫理を進化させてきた。そして品格と高潔さが求められる。
そしてこのような自分を律したり、全体を考えた行動をとるための遺伝的素因が進化してきた。なぜなら、強大な敵に対して無謀に歯向かって殺されてしまうような行動を規定した遺伝子を持った個体は容易に淘汰されてしまうからである。ヒトを含めた動物の社会では、序列やその社会の掟やタブーがあり厳格に守られている。社会学的には、社会のルールを作り守ることによって無用な争いを防ぐという集団としてのメリットがあるからこそ、そのような行動パターンが進化の過程で遺伝学的に規定され守られてきたと考えられる。そして多くの集団では、組織全体を考えることができる人間をリーダーに選んできた。民主主義はその重要なプロセスだが、昨今は、政治家が自分のためだけに嘘をつくようになり世界は民主主義の限界にも直面している。
Part2に続きます。